防災・減災への指針 一人一話

2013年11月20日
地形を意識して生活する事の必要性
多賀城市 八幡沖区長
庄子 豊さん

震災当日の様子

(聞き手)
 震災発生当時の行動や出来事で、印象に残っている点はありますか。

(庄子様)
震災発生時は、仙台プロパン株式会社の充填所で仕事をしていました。地震を感じて15分くらい過ぎた時点で、町内会のことで帰らせてもらうように会社の許可を得ました。
自宅に車で向かったのですが、信号機も止まっていたので渋滞が起き、車を置いて徒歩で自宅に向かいました。仕事場から戻る時には、誰もが恐怖におののいているように見えました。
自宅に着いてからは、まず妻の無事を確認しました。町内を見回らなければいけないと思って自転車を出しましたが、タイヤに空気が入っておらず、空気入れを探しているうちにかなり時間が経ってしまいました。自転車に空気を入れていると、歩道を走って来た女性に「津波が来ています」と言われて、振り返ると、もう津波が見えました。そして、その人と妻とで自宅の2階に避難しました。スマトラの地震の時に発生した津波と同じ状態で、信じられないような光景でした。自宅も1メートル20センチくらい浸水しました。
そして、もう1人の男性も避難させて、私と妻と救助した2人の計4人で一晩を明かしました。
翌日は町内を回って、安否確認をしました。
班長や民生委員の人などが当然いるのですが、その人達もどこかに避難して居ないという状況だったため、一週間くらいは組織での活動は全く出来ませんでした。
実際のところ、私たちの行政区では9名の人が亡くなっていました。9名の人は大体が顔見知りだったのでショックでした。
ですが、行政区内の人が9名であっても、この地域で亡くなった人はたくさんいました。
実際に、私たちも遺体を発見しているので、どうしても逃げ切れなかったのだと思います。2階に避難している時も、救助を要するような声が聞こえていたのですが、助けに行けないので辛い思いでした。また、みぞれが降って来ましたし、道路に止まっている車の屋根に登って震えている人の姿も見えました。

震災前後の地区の行事など

(聞き手)
 震災前後の、地区の行事について教えて頂けますか。

(庄子様)
例年、恒例行事として町内の夏祭りを実施していました。後は敬老会も行っていたのですが、平成23年度は自粛しました。平成24年からは、社会福祉協議会に復興支えあいセンターというものがあり、その主催で、八幡では私どもの町内におしゃべりサロン会を立ち上げました。主催者側が人と場所の支援を行い、毎月おしゃべりサロンを開催するといった内容です。
私と民生委員とで担当しているのですが、特に高齢者の方から好評をいただく事が多く、一つの楽しみとして、皆が一カ月に一回の実施を心待ちにしてくれています。
平成26年度も実施する予定なのですが、高齢者は体調差があるので激しい事は出来ず、ネタ探しが大変です。
今度は豆腐作りなどをやるようで、皆さん楽しみにしておられるらしく、やり甲斐があります。
内容によって変動はありますが、一回の実施に30名弱の方が参加しています。復興支えあいセンターは、最初は、仮設住宅付近で仮設住宅に入っている人を対象にしていたそうです。
しかし、在宅避難した人も多いため、震災以来、外出しなくなった方が増えたということで、話し相手がほしい方もいる中で、支えあいセンターが持って来たこの事業との地域のニーズが合い、私どもの町内会でやる事になりました。
 防災訓練については平成25年11月4日に総合防災訓練があり、その一環として、町内会独自で計画した防災訓練をしました。
震災前の八幡では、八幡に5つある行政区が合同で訓練しており、それぞれの町内会独自で行う事はなかったのです。
事前アンケートや、当日参加者によるディスカッションなどを行い、意識向上の成果がありました。

(聞き手)
防災訓練には、震災前と比べて、人が多く集まりましたか。

(庄子様)
町内会の集まりというのは、大体顔ぶれは決まっていますが、私どもの町内会では50人が参加したので、集まった方だと思います。しかし、その時に350人を対象に、震災前と後の心の準備や物の準備の意識調査のアンケート用紙を配りましたが、回収率は37.1パーセントでした。しかし、130人分の回答でも重みがあり、今後に役立つと思います。

(聞き手)
八幡沖区は、どんな地区ですか。

(庄子様)
八幡沖区は、古くから住んでおられる方もたくさんいる地区です。年齢としては94歳を筆頭に77歳以上が75名います。寮などに若い人がいたとしても、住民というよりは一時的な居住であり、少子高齢化が進んでいるのが現状です。
大きな家に住んでいる方が多く、地震の揺れには耐えたのですが、津波の影響で1階が被害にあった家がほとんどでした。マンションでも、2階以上に水害はなくても、揺れの被害があり、同じくらい苦労したと思います。もし津波が無かったら、被害もぐっと抑えられた事でしょう。

(聞き手)
 震災前には、どのような備えをしていたのでしょうか。

(庄子様)
地勢的な問題で、仙台港から直線で1.5キロくらいの範囲にも関わらず、日常の生活では、海が見えません。
また、昭和53年の宮城県沖地震の時や、チリ地震などにしても津波の影響は受けていませんので、津波に対する意識は薄かったです。
しかし、昭和61年8月5日の豪雨による水害で床上浸水したような地域で、その後にかさ上げをした家屋がたくさんありました。
平成6年には9月22日に集中豪雨があったのですが、それには耐えられましたので、8.5豪雨に対する反省や教訓を活かせていたと思います。雨に対しては神経質なのですが、この前の津波には耐えられず、想定を超えた津波で対応する事も出来ませんでした。
しかし、スマトラ沖のニュースや画像を見て津波の威力を痛感していましたし、平成22年に起きたチリ地震の際には、仙台港で70センチくらい潮位が上がりました。その辺りから地球の気象条件もおかしくなってきているという意識はあったかもしれませんが、全般的には津波に対する認識はありませんでした。

語り継がれてきた「末の松山」

(聞き手)
親や親戚などから、「災害時にはこうしなさい」というような教訓や伝承を聞いたことはありましたか。

(庄子様)
 八幡にある歌枕「末の松山」は昔から語り継がれているところです。
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」と詠まれているものです。
震災当日も、末の松山には、かなりの避難した人がいたらしいです。
以前、私も子どもたちに対して、末の松山に関する紙芝居を作ったことがあるのですが、こういう事は、その時に話として聞いたというだけで、津波が来るという認識はありませんでした。
大きな地震には津波が伴うということを、当時は、誰もが思っていたわけではありませんでした。
震災後は、「遠い所」よりも「高い所」に逃げるということは、さまざまな機会があるたびに、子どもたちや周りの人に話をしています。
地震はいつ起きるか分かりませんが、大きな揺れの時は、津波が発生するという認識が、今は出来ていると思います。

場所や時間などで異なる避難方法

(聞き手)
 安全に逃げるためには、どうすればいいとお考えですか。

(庄子様)
逃げ方の面での問題があります。居る場所や時間、その人の体の条件などもあるので、一概に、どこに集まって、一緒に避難するという事は不可能でしょう。
震災前、町内会で防災計画を作り、班ごとの集合場所などを指定していたのですが、それを皆さんに配る前にあの津波が来て、ある意味、良かったと思います。
計画通りに行動をしていたら、かなりの人を危険にさらす事になっていたかもしれません。そのため、一概に「この方法で避難する」と決めてしまう事は出来ないと思いました。
やはり、町内会や自治会の責任者などが、よく考えておかないと後々大変な事になりかねません。
例えば、どこかに集合させておいたばかりに全員が被害に遭ってしまう事だって考えられます。そのような時に変に動いてしまうのはどうかと思います。学校にいれば、全員で安全な場所に避難をするため、大体安心だと思います。
震災当日は中学校などの卒業式がありました。また、幼稚園に迎えに行っていた保護者もいて、ちょうど帰宅する時間帯でした。
しかし、まだ学校に残っていた子どもたちは学校に引き留められていたため、私どもの町内会に住むお子さんは、全員無事でした。

自動車による避難の危険性

(聞き手)
 他に、避難時に重要になるポイントはありますか。

(庄子様)
地理的な話になるのですが、多賀城には、大きな二つの道路、産業道路と国道45号が通っているため、車が大量に走っており、それも、避難の際の弊害になったのではないかと思います。
これもこの地域の一つの特性だと私は捉えています。
津波が来た時点で、車に乗っていると、窓も開かないですし、簡単には、窓を壊す事も出来ないため、車から出られず、被害にあった方がたくさんいました。

(聞き手)
 多賀城市の復旧・復興についての意見や考えはありますか。

(庄子様)
私は復旧・復興という事について、一番感じたのは、当初の馬力は凄いという事です。メインの道路を逸れて、脇道に入ったら歩けないような状況だったのですが、信じられないようなスピードで、がれきなどの撤去に励んでいて、凄いと評価しています。
これがいわゆる、次の復興のための足掛り、足場作りだと思います。復興に関して、私たちが言える事はないのですが、復旧を含めて10年という市の計画になっています。しかし、残り7年でどこまでやれるか、私は少々疑問に感じています。

自助の意識が基本

(聞き手)
 東日本大震災を経験して、後世に伝えたい事や教訓はありますか。

(庄子様)
やはり自分自身で命を守るという気持ちが、私は基本だと思います。実際津波が来てしまうと誰も助けてくれないので、その段階で自分の命を、自分でどうやったら助けられるかという意識を持つ事が必要だと思います。
また、自分が住んでいる町や地域の特性を認識しておくべきです。ここは太平洋から1.5キロしか離れてない事もあるので、そういう平坦な場所に住んでいるという意識を持ち、地勢を認識しておくべきだと思います。この地震で地盤沈下が起きていて、見た目にはわからないのですが、最大で90センチくらい沈下していて、浸水しやすくなっています。住んでいる人たちがそういった事柄に対して、認識を持つ事が大切だと思います。

高齢者の避難と地域のサポートの限界

(聞き手)
 普段から、災害への意識を高く持っておくことは重要ですね。

(庄子様)
そうですが、災害に関して四六時中考えてしまうと精神衛生上良くないと思いますので、朝昼夕夜と分類をして考えたら良いと思います。
それぞれの家族で違いがあると思いますが、5人家族だとしたら、夜から朝にかけては家族全員が揃っていても、昼間は4人が働きに出ていた場合、高齢者は家で一人になってしまいます。その場合、一人で住む高齢者は近隣と頻繁に連絡を取り、2階に逃げるなどの意識を持つべきだと私は考えています。
また、防災訓練に参加したり、たまにアンケートを取ってみたりして、地域としてさまざまな施策を講じて防災意識の高揚を図っていくべきではないでしょうか。
最近、問題になっているのは、ひとり暮らしをしていて、認知症などを発症している方がいた場合です。そのような方を、誰が監視をしたり、気にかけられるかということですが、一つは民生委員と言われています。
しかし、民生委員は私の区で2人しかいません。また、そういった仕事ばかりもさせられません。住んでいる所や、その人の健康状態などさまざまな条件があり、難しい問題です。そのため、この事も今度の災害で特に意識させられるようになりました。

(聞き手)
 多賀城市に対しての意見がありましたら、お願いいたします。

(庄子様)
市が進めている復興については、個人にとっても重要なことです。そのため、納税者である私たちは、その納税をしている事に意義があるのだと思います。いつまでも被災者根性でいたくないとの気持ちもあり、甘えてばかりいられませんが、家を建て直し、車を買い直さなければいけないなど、個人としての復興も果たさなければいけない事も事実です。

災害の経験を伝えていくことが重要

(聞き手)
教訓として、伝えていきたい事はなんですか。

(庄子様)
私たちの八幡沖区という所は、市内でも地形的に低い所で、海も近いです。こういった事を伝え、学校でも話をする機会を設けるべきだと思います。八幡地区で生活している以上、常に考えておかなければいけない事です。そのため、お祭りの時に寸劇などを行い、子どもたちに印象づける事も大切です。
また、実際にあの津波に遭遇した方の感覚は、話に聞いているものとは全く違うと思います。それをどうやって伝えるのか模索しなければいけません。そのため、集まりなどで、災害の話をするなどの機会があればいいと思います。

(※本文中のイラストは、すべて庄子豊さんの描かれたものです。)